ピアノの森ー苦悩しないと極上の表現者になれないの?



一色まこと著『ピアノの森』を先日、読み終えました。全26巻。


私の中で一番ピピピッときてしまったのが

15巻「第138話 解釈の違い」。


そして最初につーつーと、後から後から静かに涙が頬を伝っていったのが、

5巻「第35話 33番丸山誉子」。




【苦悩と引き換えに彼が得たもの】


ピピピピッときてしまったんです。


キミは…恵まれた日本のまるで闇の部分のような
劣悪な環境の中で生まれ…育った
キミは…人々から蔑まれるあの場所を押しつけられたかわりに…
何を引き換えにもらったと言うんだ!?

聴衆をすべて森に連れて行くほどの力を…
与えてもらったと言うのか!?

ー15巻「第138話 解釈の違い」より

漫画作品なので文字面だけだと伝わりにくいかと思いますが…もしよかったら読んでみて下さい。


最近ふと考えます。

知らないでいることの方がしあわせなのか、それともそれを糧にして創作や表現にパワーを与えられるならそれが自分にとっての幸いになるのか。


人は誰しも闇の部分を抱えていて、

その闇の深さは誰とも共有できなくて、そしてとても孤独です。


不幸自慢大会みたいな問答を小耳に挟むこともありますが、この種の孤独は本来、比べられないものでもあります。


私はこの年になるまで、特定の誰かを憎んだり恨んだりしたことはありませんでした。

それはきっと、とてもしあわせなことだったのでしょう。


初めて、人の不幸を心から願う自分と出会いました。

いつもではなく、瞬間、瞬間にその自分はやってきます。


そう思ってしまう自分を受け入れました。

少しずつ。

でもそれは、物凄くつらい作業でした。


どうにもならないことが世の中には本当にあって、どうしようもないことで、

ましてやそれが当人にとっては善意による発露(でも計算もチラチラ見え隠れする)であって、
恐らくあまり自覚もなくて。

もしかしたら疑うまいと努力していらっしゃるのかもしれません。
「どんなに綺麗な水を注いでも受け皿がひび割れていたら受け止められない」と教えを受けておられるそうです。
"本当"というものは、どの立場から見るかによって変わるのでわかりません。

そしてその方にとっての"本当"が
私にとっての"本当"ではなかったことが、
今回の引き金となってしまったのだと思います。

どうしようもないことって、きっとたくさんあります。

心がメチャクチャになった時、私には作詞作曲、そして歌がありました。

作曲はここからできるようになったのだと思います。

そういう意味では、あの方のおかげです。

感謝しないとですね。


そんな私も、今まで無自覚(あるいは目を背けて)にたくさんの人を傷つけて生きてきています。
そういう意味では、同じ穴のムジナなのかな…胸の中に冷たい風がひゅーひゅー吹き抜けるような気分です。
なんだか、恥ずべきことのような気もします。


愛と憎しみが背中合わせということも知っています。

権力を持っている方が強い世界。


私の目にいま映る世界は、そういう世界だったりします。




表現や創作をする上で、
毒を毒として吐き出す(形にする)場合と、
毒や闇を抱きながらも結果として出てきた作品がとても美しい形になる場合とがあると思います。

私は、できるだけ後者の道を行きたいです。

闇を抱えなければ良い作品が創れないのか、良い表現者になり得ないのか。
きっとそんなことはないのでしょう。

けれど、私は私のちっぽけな頭と心と身体を持ってしか世界を見て確かめることができないので、あくまで私個人の場合はということにすぎません。

ただ、たくさんの愛を注いでくれる人たちが私の周りには何人もいてくれているので、
「自分だけどうして」と、大袈裟に嘆いたり喚いたりするような人間にはなりたくないです。

文字通りの意味で、私より大変な目に遭っている人は世界中至るところに居るのですから。

それでつらい気持ちが軽減されるかといえば、もちろんそんなことはないのですが。

でもそれもまた私の中にある真実です。

それにしても、音楽があって本当に良かった(笑)。

【誉れの子】


コンクールや大会は確かにあるけれども、舞踊も音楽も本来は人と競争するものではなく、カンペキが大正解なわけでもないということ。

敵はあたしの中にいるあたし自身!
わかってる…

ー5巻「第35話 33番丸山誉子」より




この時の彼女の気持ちを、忘れないでいようと思います。




写真提供(1枚目) https://www.pakutaso.com

上倉 悠奈Official website

アーティスト・日本舞踊家 上倉 悠奈の公式HP

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